結局のところ、眠れたのか眠れなかったのか、美鶴自身にもわからない。眠ったような気もするし、ほとんど眠れなかったような気もする。
うつらうつらとするうちに、窓の外が薄明るくなっていた。
寝心地はこの上ないのだが、なんとなく落ち着かない。遂には身を起こしてしまった。
だが起きたところで、何もするコトはない。
テレビでもあれば………
だが、ホテル並に整った部屋ではあっても、テレビは設備されていない。
…………
昨夜母が口にしたミニバーなどという言葉を思い出し、思わず舌を打つ。
同じようなレベルの発想に走ってしまった自分を、情けなくも思う。
「ふー ………」
半身を起こした状態で、ゆっくりと室内を見渡す。七時少し過ぎを指す時計と母の寝息以外は、何の音も聞こえない。
いや、陽の零れるカーテンの向こうから、可愛らしい小鳥の声。
他にすることもなく、再び身を横たえる気にもならない。
そっと立ち上がり窓際まで歩き、カーテンを引いて外を覗く。
「へぇ……」
思わず声をあげた。
二階の窓から見下ろす手入れの行き届いた庭。庭の周りは化粧ブロックとフェンスで囲まれており、その奥は見えない。
見えないというのは、たぶん斜面になっているからだろう。
そういえば、昨夜は暗くてどこをどう来たのかさっぱりわからなかったが、なんとなく上り坂が多かったような気がする。
塀の向こうに広がる明け空。それはまるで天空の眺め。
背中から肩の辺りに妙な高揚感を覚え、なんとなく視線を落とす。
昇り始めた朝日を受けて白く映えるテラスや緑をぼんやり眺めていると、やがて視界の端に人影が動いた。
車椅子に乗った老人と、それを押す若者。
若者は霞流慎二。ということは、老人は祖父なのだろう。
ゆっくりと庭を移動する二人は、やがて眺めの良さそうなフェンスの前で止まった。
斜面から下に広がる景色でも眺めているのだろうか?
霞流は、ずいぶんと細い人間に見えた。
痩せ気味というのもそうだが、肌の色も白めだし、髪の毛も若干茶色い。染めているようには見えないから、もともと色素が薄いのだろう。
昨日は背中で束ねていた腰ほどまでの髪の毛を、今はサラリと開放している。遠目にみても、毛先が不揃いなのはわかる。
車椅子に両手を乗せ、美鶴に背を向けて立つ霞流慎二は、どことなく神秘的だ。
時々会話を交わしているような仕草を見せる霞流。その二人に、建物から出てきた男性の使用人が近づく。霞流が振り返り、少し横に身を引く。男性は車椅子を押して反転させ、祖父だけが庭から姿を消した。
建物の中へ戻るのを庭で見送った霞流慎二は、その後しばらく一人で立ち尽くしている。
庭は南に面しているのだろう。建物と対峙して立つ彼は、昇る朝日を右から受ける。
ゆったりとした室内着を身に纏い、ポケットに両手を突っ込んで髪を風に任せる姿が、静かな朝の庭にとてもよく合っている。
その身体がピクリと動き、首が微かに揺れた。
目が合った。
そう思った時には、すでにカーテンを閉めていた。
両手で閉めたカーテンを握りしめ、美鶴はしばらく呆然としていた。
なにやってんだろ?
汗ばむ手は微かに震え、唇がひどく乾いているのがわかる。
まだ庭にいるのだろうか? こちらを見ているだろうか?
だが、再びカーテンを押し退けてそれを確認する勇気は、美鶴にはない。
しばらくそのまま固まった後、ギクシャクした足取りでベッドに戻った。
瞬きをすると、乾いた瞳に涙が沁みた。瞬きもせずにいた自分に驚き、戸惑った。
認めるのは少々癪でもあるが、手入れの行き届いた庭と朝焼けを受けた霞流という組み合わせは、見ごたえのある景色ではあったと思う。
でもこれじゃあ、目の保養っていうより目に毒だよ。
ゴロンとベッドに仰向けになる。隣からは母の規則正しい寝息。何の悩みもないような屈託のない寝顔。
まぁ、さすがに何の悩みもないワケではないのだろうが、大事も大事だとは思わないその気楽さが彼女を楽観的な人間に仕立て上げ、結果として悩む必要がないのだろう。その性格を、羨ましいとすら思う。
目を閉じると、瞼の裏に人影が浮かび上がる。
あの人、病気なのかな?
ブンブンと頭を振る。
金持ちの男に、ロクなヤツはいない。そうに決まってるっ!
それに、なにさっ! 男のクセに髪の毛をあんなに伸ばしてっ!
だが知らぬ間に、朝日を浴びる姿が思い返される。
肌に感じたワケでもないのに、その風は薫るように柔らか。
靡く髪の毛は陽の光を受け、もはやそれは金髪。
目尻の少し上がった、切れた細い目。
霞流との間には、かなり距離があったはずだ。なのになぜか、その瞳の微かな動きまでもが、手の取るようにはっきりと見える。
はっきりと、こちらを見ている。
なぜ………
脳裏にこびり付いた残像に眉を潜めながら、美鶴はやがて、眠りの世界へと落ちていった。
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